2008年07月21日
川俣晶の縁側歴史と文化下高井戸周辺史雑記 total 3251 count

北沢川 桜上水支流の支流の更に上流部はここだ! 現存する「ドブ板」発見せり!!

Written By: 川俣 晶連絡先

 北沢川 桜上水支流には更に支流があったのか? 松沢中学校脇の別の経路!?水源が多すぎるのか!? 下高井戸玉川上水南岸のミステリー!?と続いてきた北沢川 桜上水支流の支流(?)の追跡ですが、更に上流部を発見しました。これ以上の凄い発見は無いかもしれない……と思っていましたが、違いました。予測もしない三重の衝撃に襲われてしまいました。

地図で見る §

 北沢川 桜上水支流の支流について、京王線の北側の範囲で、今回の発見範囲までラインを引いてみました。

 A点からC点までは開渠です。C点で地下に入り、E点までは道路の地下に水路があると思われます。ちなみに、1948年の航空写真を見る限り、暗渠化される前は、C点とE点の間の道と並行に水路(道路の南側?)があったと思われます。E点からドブ板(後述になります)。ここから先は、地図に道路としてプロットされていませんが、F点の少し手前までは歩いて入ることができます。F点の少し手前には立ち入り禁止を示すように柵が置かれています。G点には表通りを迂回することで入ることができますが、うろうろしていると不審者に間違われます。(実際、近所の人から疑いの目で見られ、尋問されました)。G点より先は入ることができませんが、H点まではドブ板が存在するようです。しかし、その先にドブ板が続いている気配はありません。

衝撃その1・道路になっていない暗渠があった §

 さて、今回はほとんど期待しないで歩きましたが、それにも関わらず3つの衝撃に見舞われました。

 第1の衝撃は、道路になっていない暗渠があったという事実です。これが何を意味するのかというと、地図による探索が空振りだったことを意味します。暗渠の多くは道路になっていて、それは地図で辿ることができる……という暗黙の前提を置いて作業していましたが、それが裏切られました。

 これが道路になっていないのは、おそらくどこにも通じていないからでしょう。

衝撃その2・現存するドブ板があった §

 私が子供の頃には、ドブ板と呼ばれる道路がいくつもありました。これは、既存の水路にコンクリート製(?)の板を渡して塞いだものです。そらく、昭和39年(1964年)の東京オリンピックあたりに、臭いものに蓋をする感じで塞がれたものだと思います。ずっと、汚いドブ川だと思っていましたが、実は玉川上水下高井戸分水というれっきとした上水の分水だと知ったのは最近です。

 さて、少なくとも下高井戸の甲州街道以北にあったドブ板は、全てアスファルトの舗装を施されてドブ板状態の道は残っていないはずです。そのため、ドブ板は(少なくとも下高井戸では)全て消滅したと思っていました。

 ところが、ここにはまさに消えたはずのドブ板が残っていました。しかも、暗に存在を想定した玉川上水と神田川の中間領域ではなく、京王線と甲州街道の中間領域でした。

 これは、けっこう衝撃的でした。

 以下はF点付近からE点方向を見た光景です。板で塞がれた様子が良く分かると思います。

ドブ板

衝撃その3・ヘアーサロンSANOの2軒裏だった §

 床屋のヘアーサロンSANOの佐野君とは小学校以来の友人です。小学生の頃は、よく佐野君の家(当時は佐野君の父親がやっているバーバーサノ)に行って、店のマンガを読ませてもらいました。(マンガ以外の遊びで佐野君と遊んだことも多い)

 さて、上記地図のH点は、そのヘアーサロンSANOから家2軒を挟んだ裏手にあります。

 C点ならヘアーサロンSANOからかなり距離があるので、心理的に「気付かなくてもやむを得ない」という気がしましたが。これだけ近い場所にあると、かなり衝撃的です。

感想 §

 北沢川関連の話題は、基本的に世田谷区の話題であり、少なくとも荒玉水道以東に限れば全て京王線以南の話だと思っていました。しかし、この話題は完全に京王線以北であり、杉並区下高井戸1丁目に含まれる話題です。ということは、下高井戸に興味をフォーカスしている私には外すことができない話題です。それが浮かび上がってきたのは、本当にびっくり。

 「世田谷の川 探検隊」さん、気付くチャンスをくれて、ありがとうございます!

補足・E点に残る水路屈曲点の傍証 §

 E点は道路の幅が急に狭くなっています。これは、道路と並行に水路があった状態から、水路だけが南に曲がって行った痕跡という可能性があり得ます。

補足・H点から先は? §

 周辺を歩き回りましたが、H点から先のドブ板は存在しないようです。

 他のドブ板がいずれも道路になったことから考えると、H点から先があり、どこかの道路に接続していれば、このドブ板も道路になったのではないかと思います。なので、H点から先はない、つまり水源地はここであるという解釈で良いような気がします。

 ただし、H点から北に向けて(建物のない部分をつないで)玉川上水まで1本のラインが引けるのも事実です。

 しかし、このラインで水路が続くことはあり得ないだろう、と考えます。まず、既に述べた他の道に接続していれば道路として使われているだろう、という理由の他に、1948年の時点でこの経路はつながっていない可能性もあり得るからです。I点は「(有)エスパス都市建設設計」という会社の入り口で、奥の建物まで道が続いていますが、このI点は1948年(周辺に農地が多くまだ水路が使われていた可能性が高い)の航空写真では建物で塞がれていて、続いていないように見えます。

 というわけで、この経路はおそらく無いだろうと思います。H点付近の湧水が水源、というあたりが妥当なところかもしれません。今のところ、確証はありませんが。

下高井戸周辺史雑記